「おとのわ」に寄せて

「おとのわ」に寄せて(宣伝段階でHPのためにメッセージ依頼されていましたがどうしても書けず間に合わなかったので、今更何の役にも立ちませんが思うところあったので書いておきます)

2011年によく聞いた「暖かいご飯と暖房や毛布に比べて、災害時には芸術は何の役にも立たない」という言説は、僕には耐え難いものだった。はっきりさせておきたいのは、そんな事は当たり前だ、という事だ。他でもない僕自身が、しばらくの間は音楽を演るのも聴くのも気が進まなかったし、日常的に水を飲むように観ている映画にしても、ちっとも面白いと思えなくなっていたのだから。それよりも暖かい場所でご飯を食べられたり、安心して眠れる方がどんなに尊いと思ったか知れない。仮にそこで我々が「こういう場合は芸術は何の役にも立たない」と思い、それを口にするのは致し方ない事ではあるけれど、それでも、そんな風にジャッジされてしまう対象が「芸術」であるという事が、本当に辛かった。繰り返しになるが、あんな災害時には僕の大好きなアルドリッチの映画も、ルオーの絵も、シェシズの「約束はできない」のようなレコードも、人の命のたすけにはならない。しかしそれは飽くまで即物的な意味合いでそうなのであって、僕が耐えられなかったのは、それほどいとも簡単に、芸術が「役に立たないもの」として俎上のものとされ、みじめな錆びた包丁によって切り刻まれていくさまを見なければならなかったからだ。ハリケーンのような「ジャッジ」の勢力が、一見つまらなく無価値にみえる「気取った芸術」や「意味不明なゲイジュツ」を吹き飛ばしてしまった。その嘘寒いほどの味気なさの前で僕は愕然とした。オノ・ヨーコが服を鋏で切り刻む古いフィルムも、ダダカンの「殺すな」も、「6月の雨の夜、チルチルミチルは」とか「海で暮らす」のような歌も、首くくり栲象の切ないパフォーマンスも、ビル・トレイラーが路上で描いたささやかな絵も、布団の中でずる休みして震えながら読んだ菅野修のマンガも、挑戦状のような鮎川信夫の詩も、キセルして小国で聴いたスティーヴ・レイシーのサックスも、めくるめく結晶か宝石のような赤い臓物のような高橋朝のドラムも、無かったことにされてしまうのだろうか? そういうものが僕を作って来たのに。すべて無用のものとして吹き飛ばされたあとで、世の中はどれだけ味気なくなるだろうか。と恐怖したのだ。そういう意味では、1年半後に齎された志賀理江子「螺旋海岸」はまたとない贈り物だったし、自分自身も吹き飛ばされない強度と、澱みのないしなやかさを持たなければならないことを学んだのだった。「おとのわ」がどうか、そんな少数者や無頼やクズや無意味、あるいは砂浜のなかで見過ごされてしまいそうなごくごく小さな名もないきらめきを、邪険に切り刻んだり吹き飛ばしたりしない、大らかなイベントであり続けますように。

2013年2月4日 澁谷浩次

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