2011年3月30日水曜日

避難所としての火星の庭

震災当日、営業を始めてまだ1週間強しか経っていなかった喫茶ホルンは無事だったものの、地震に連動して(?)狂ったように降ってきた大雪の中を自転車で自宅に帰ってみたが、それはもうものの見事に物が散乱していて、倒れたり散乱するであろう位置にあったものは漏れなく倒れたり散乱したりしていたのだった。もはや金魚とは呼べないぐらいに幸せそうに巨大化した愛魚の「ヤンキー」は、哀れにも空気を送るポンプのモーターが壊れた状態でユラユラ泳いでるし、何年もかけてせっせと買い集めた我がレコード群も、無残に部屋中にぶちまけられて折り重なっているし、猫たちは呼んでも返事無いしで、片付けようにも何処から手をつけたらいいのかと途方に暮れてしまった(いま考えたら、僕らのそんな『被害』などちゃんちゃらおかしいものだったと思うけど)。一旦ホルンに戻って、散乱した食器類がそれ以上破損しないように、ひとまず床に安置したりするうち、外はどんどん暗くなっていった。そういえば何も食べてないなと思って、売れ残っていた冷え冷えの大根のサンバルを食べた。外に出て「さて、どうしようか?」と考えたものの、取り敢えず家に帰るぐらいしか思いつかない。ナツと二人で自転車を押しながら、なぜか遠回りして一番町アーケードを歩いたりしたが、仙台へ来て17年、初めて何も電気の点いていないアーケードを見てなんともいえない気分になった。取り敢えず自宅に辿り着き、どうにか座っていられるぐらいの場所を作って過ごそうとしてみたものの、強い余震があるたびに灯油ストーブを消して家の外へ出る、という事を繰り返すので、いつでも出られるように玄関は開放されたままなのでストーブをつけていたとしてもムチャクチャ寒い。無論、外はもっと寒い。どうしていたって寒い。流していたラジオ放送で、近所の高校が避難所になっているという情報があり、このまま家でビクビク過ごすよりは良かろうということで、毛布を抱えて行くと、「本当は生徒のために開放しているのであって一般の方のための避難所ではないんですが集まってきちゃったからしょうがない」という感じで一夜を過ごさせて頂いた。ふだんは柔道の練習場になっているのであろう体育館に入って行くと、学校関係者なのか地域の方がボランティアをしていたのか、ポットのお湯でお茶をいれて下さったり、リッツクラッカーを恵んで下さったりした。暖房は広い体育館の中に灯油ストーブが3台しか無かったが、それでも家に居るよりはずいぶん暖かく思えたし、何より横になって休めるのが有り難かった。そういう時に関さんからナツの携帯に電話が来たのは、本当に嬉しかった。地震発生から何時間も、二人だけで「どうしよう、どうしよう」と右往左往するばかりだったのが、初めて外部と連絡がついたわけで、地獄に仏とはこの事だと思ったのも束の間、つけっぱなしのラジオから「南三陸町が津波で壊滅状態」という報が流れるに至って、僕らは事態の本当の深刻さを知ることになったのだ。

自分の生まれ育った町が壊滅状態になった人に、僕は会ったことがない。それがいま、自分の妻の身に起きている。ナツの実家には神社の宮司である彼女の父親と妹、母親、妹の夫、そして幼い甥が暮らしていて、妹の夫の両親は市街地の川の近くで菓子店を営んでいる。実家の神社は以前の災害時に避難所になったぐらいで比較的高い位置にあるので、皆が津波発生時に家に居れば大丈夫だろうという希望的観測は出来たが、義弟の両親の店は絶望的に思えた。義弟はふだん両親と菓子店で働いているから、仮に実家の神社が無事だとしても、彼の身に何かあったらと想像すると、イメージは悪い方へ悪い方へと向かっていきそうになる。そのうち、僕は心配するのにも疲れ切ってしまっていつしか眠ってしまったが、ナツは全然寝られなかったようだ。結局、義弟の両親を含む南三陸の家族が全員無事だったことが確認できたのは、その3日後だった。

翌日、ひとまず自宅の様子を見に戻ったが、やはり自宅で過ごすのはリスクが大きいということで、正式な地域の避難所である小学校へ行ってみた。こちらの体育館では普通の板張りの床にブルーシートを敷いた上に、避難してきた人たちがそれぞれ布団や寝袋を持ち込んで休んでいた。食料などが配られている様子はない。僕らは持ち込んだ2枚の毛布の上に座って、しばしそこでボーッとしたり、学校の前に落ちている夥しい吸い殻を拾い集めたりして過ごしてみたものの、どうにも気分が落ち着かないので、「火星の庭に行ってみようか」ということになった。行ってみると店の中には布団が敷いてあって、前野さん一家がまだ休んでいたので、ホルンの片付けなどしてから出直すと、火星は何人もの知人、友人が頻繁に出入りして情報交換したり、食料を持ち寄ったり、必要なら寝泊まりも出来る避難所と化していた。僕らも僅かだけどホルンから食材や生活に使えそうな物をちょこちょこ持って来て、当面居させてもらうことになったのだが、自宅の電気や水道が復旧してからも、友人に灯油ストーブを貸したり、実家から仙台の親戚の家に避難してきたナツの家族のために布団を提供していたりで、自宅で寝起きするのは現実的ではないということになったりして、結局この火星での避難生活は、実に18日間にも及ぶことになったのである。

火星で過ごした期間、もちろん前野夫妻には言葉では言い表せないほどお世話になったし、ずいぶん迷惑をかけてしまったとも思うけど、個人的には、何年も疎遠になっていた卓さんやさっちんとの再会、今回の事をきっかけに親しくなれた洋平君との出会いなど、楽しい事が沢山あった。特に洋平君が「子どもの頃に乾電池で遊んでいた」という話は、我々のイマジネーションを壮大に、そして無駄に刺戟した。それに付随して、健一さんが「子どもの頃に乾電池を口に含んで感電した」という話も。
避難生活が1週間以上に及んだ頃、健一さんの発案により、火星でyumboの演奏を撮影してYoutubeで発表することになった。その1回目の撮影の時には、あゆ子は彼氏と山形に避難していたし、大月さんも家族と居るだろうからと気を遣って呼ばなかったりして(しかし実はその夜は奥さんと子どもが関西へ避難した後で、大月さんは自宅で一人でギターを弾いていたという)、演奏は僕とナツと朝倉さん、そしてskype参加の山路さん、飛び入りの生田ちゃんというメンツで行なった。しかし、更に1週間後にはあゆ子も仙台に戻り(トイレットペーパーの芯で手作りした将棋盤を大事そうに鞄に仕舞っていた)、大月さんも呼ぶことができたので、震災後初めて、全員揃っての演奏が実現した。この時は新しい曲を2曲書くことができて、公開録画を大勢の人が観に来てくれて、濱田さんも微妙に八百長っぽい飛び入りをしたり、終わってからは元yumboの庄司君も交えて歓談したりと、非常に楽しい思いをさせてもらったのだった。
仙台市内はもうじき都市ガスが復旧する。僕らは寝袋を購入したことでもあるし、そろそろ本格的な店の営業再開の準備をしつつ、自宅に戻ってガス復旧の立ち会いの機会を待つべきではないかということになった。長らく店の床に安置して埃をかぶってしまった大量のグラスやカップをすべて洗浄し、元通り棚に仕舞い、自宅に戻って猫2匹と過ごしながら、ローリン・ヒルのMTVアンプラグドのDVDを観ていると、最高潮に気分が落ち着いた。金魚のポンプも、今は正常に機能している。

そういうわけで少なくとも今はささやかな落ち着きを取り戻してはいるけど、周囲には放射能のおかげでやむなく子どもを疎開させている友人・知人の家族が居たり、ご両親とお別れしなくてはならなくなった大事な友人が居たり、仕事も家も失った親族が居るので、この先の事を考えるとまるで何も落ち着いたわけではないし、むしろこれからが大変なんじゃないかと思うけど、そういう中でも珈琲を出したりカレーを作ったり、音楽をやったり、何かしら僕らにもやれる事が残されているのはせめてもの幸いだと思う。

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